神秘について「生は冒険だ」それは終わり得ない。だからこそ、それは神秘と呼ばれる。 それは決して知り尽くせない。それは決して知識にはならない。 だからこそ、それは神秘と呼ばれる。そこにある何かは永遠に謎のままだ。 そしてそれが生の喜びのすべてだ。生の偉大な輝きは、 あなたを永遠に、探求と探検に従事させ続ける。 生は探検であり、生は冒険だ。 「神秘家とはなにか?」 神秘家(Mistic)とは、特別な欲望をすべて落としてしまった人のことだ。 神秘家とは、誰か自分以外の者になりたいという欲望を持っていない人だ。 神秘家とは、まったく満足している状態にある人のことだ・・・ 神秘家は生を愛する。 そしてその愛の中で、神秘が開かれる。その神秘は深まっていく。 ひとつの扉が開き、そしてさらに深く深くへと、あなたは入っていく。 その深みに終わりはない。 神秘家は、ただ生の当たり前のことがらを楽しむ。 朝の食事、シャワーを浴びること、散歩、通りの子どもたちのくすくす笑い、犬。 これらの小さなことがらを楽しむ。 一瞬一瞬が、すばらし歓び、すばらしい栄光、すばらしい輝きに満ちている。 そして、瞬間瞬間がとても貴重だ。 その時、この瞬間がすべてだ。時間は彼のマインドから消えてしまう。 彼はこの瞬間に、永遠のなかに生きる。 神秘家は、くつろいだ人だ。 彼は、手放し (Let-go) の状態にある。 その歓びは途方もなく、その至福は例えようもない。 OSHO 「一休道歌」上巻(めるくまーく出版)より "私はあなた方に情報を伝えているのではない。それでは「驚きの念」を殺してしまう。「驚きの念」は、非常に貴重な宝だ。情報にそれほどの価値はない。私はあなた方に何かを教えようとしているのではない。むしろ逆に、学んだことを忘れさせるのが私の仕事だ。知識過剰になると、知っていることが何の驚きももたらさなくなる。あなたの驚きや畏敬の念は消えうせ、陳腐なものになってしまう。もう知っているのだ──どうやってそれに驚きの念を持ちつづけることができる? 何も知らないという状態にいないかぎり驚きを感じることはできない。何も知らないという状態・・ 私はそれを瞑想と呼ぶ。それはあなたを浄化する。私はあなたの鏡にわずかな塵が積もることも許さない。私はあなたがみずみずしく新鮮であってほしい。物知りになったとたんに、あなたは驚きを失ってしまう。物知りになったとたんに、あなたは私との接触を失ってしまう。ここは知識人や学者たちの場所ではない。ここは存在の途方もない神秘の前で無知のままにとどまる質と勇気を持っている人々のための場所だ。" 『The Dhammapada: The Way of the Buddha』 第 12 巻 講話 4 参考文献 悟浄出世 中島 敦 (悟浄は自意識が強く、知識を持つゆえに、妖怪たちの中で一人苦しみ悩み、流沙河に住むさまざまな賢者や隠士を訪ね歩く。三蔵法師に出会う前の悟浄を奔放な発想で描く。1942(昭和17)年7月『南島譚』に収められた。)興味のある方は、下記の青空文庫に飛んでください。 (数秘学で7を持っている人は、必読です) 青空文庫悟浄出世へジャンプ 悟浄歎異 副題: 沙門悟浄の手記 (三蔵法師に従って天竺への旅の途次、行動派の悟空や享楽派の八戒に比べ、懐疑的な思索派の悟浄は、何かと懊悩する。ニヒリズムの奥に微かな光をも感じさせる佳篇。1942(昭和17)年7月『南島譚』に収められた。) 青空文庫悟浄嘆異へジャンプ |